退院
去年の11月18日転院し当初は年末は家で過ごせるかなぁと本人も期待しつつの状態でした。
結局あまり負荷もかけられないのでリハビリ自体も徐々に進み、退院の話がでたのは12月の終わりの頃でした。
二回目の本人同行の家屋調査が1月9日に決まり実際に退院できたのは1月23日でした。
やっと家に帰れるーと思ったのでしたが、退院の話の時に主治医の先生から胸に少しお水が溜まっているようです。と言われました。
ただ前回にも書いたように先生は心臓の先生ではなく、リハビリ病院ではこれ以上は診れないとのこと。
手術した病院の外来までにはまだ2週間程ありました。
私が「どんな状態になったらすぐに前院に行ったほうがいいですか?」と聞くと
先生は「不安ならこの帰りに診てもらえるように言ってみます。」と言ってくれて退院のその足で前院に行くことになりました。
救急外来で手術の時の主治医の先生に診てもらい結果「入院ですね。」とのこと。
義父は本当に可哀想でしたがまだ家には帰れなかったのです。
診断はやはり不整脈が出ているとのことでまたCCUに逆戻り。
やっと少し筋力がついてきたかなぁというところだったので家族もがっかりでしたが、前回の手術直後では本人の気力がまったくなかったので「しょうがないねぇ」と言いつつ少しは元気な義父の姿が救いでした。
結局前回のアブレーションを受け今回は外科的にもなにもできないので薬で不整脈を抑えることになりました。
除細動器の話も出たのですがこの時点で義父の体重は40キロ弱になってしまっており、身長が160台の後半なので痩せすぎだなぁと一目でわかります。
本人と家族的には除細動器はないかなというのと義父の症状だとそもそも不整脈の時間が短いため除細動器がうまく機能するかも分からないと言われ選ばない方向になりました。
本当に退院できたのは2月10日でした。
入院が10月の中旬だったのでほぼ4か月本当によく頑張りました。
介護保険の話を少し。
リハビリ病院の退院に向けての調整の際ケアマネジャーさんを決める際、
慣れるまでしばらく私が窓口すること、今後双方の両親のことを考えて両親(ほかの記事に書きましたがレビー小体型の認知症です)と同じ方にお願いできないかと打診しOKが出ていました。
そのケアマネジャーが退院調整の際も一緒に来てくれて話を進めてくれました。
ただ介護保険は入院中は使えないので今回のような場合は最終的に退院ができた後に実際の支援が始まります。
なので福祉用具を借りる際も入退院等があった場合も必ず連絡をして入院中はストップということになるようです。
次回は退院後の生活について書き最終にしたいと思います。
回復期④
リハビリ病院では家族が面会に行っても会えない程リハビリの先生の介入をしてくれました。
内容は回転式のペダルを漕いだり、歩行をしたり、脳トレのような色塗りや穴埋めの問題を解いたりといったものだったようです。
全て心拍数や血中の酸素数値を図りながら介入でした。
また主治医の先生は心臓疾患が専門ではなかったようですが薬の調整等で状態も随分と落ち着いてきました。
食事は一日目以後波があったようですが、手術直後に比べればだいぶ食べれるようになりました。
リハビリ病院では入院後しばらくすると家屋調査をしてもらいました。
今後退院に向けてどれくらいの身体能力まで回復できれば自宅で自力で生活ができそうか、また自宅の生活で困難な場面がありそうならその部分をサービス等で補う等家族と一緒に考えてもらえるようになっていて心強かったです。
ベットの位置、高さ、玄関の段差やお風呂場の扉、段差、深さ、リビングの椅子の高さ等を図ったり写真を撮ったりして記録されていました。
その当時義父は少しの運動でも息切れが出ていました。
ベットサイドに手すりがあればいいかもしれないですね。また、玄関は可動式のステップ等があといいかもしれないです。等具体的なアドバイスもありました。
介護用品でレンタルできるものはレンタルで対応したほうが今後状況が変わった場合でも対応がスムーズかもしれないとのアドバイスもいただきました。
実は家屋調査はこの一度だけではなく退院直前に再度してくれて、本人同行で実際の動きをみながら必要なサービスの検討もしてくれました。
回復期③
その後も食べれない、動けない状態は続きましたが、傷口の状態が安定した時期に退院できるとの話がでました。
転院調整していた回復期の病院の部屋が調整できたとのことで転院に向けて話が進みます。
転院前には胸水がたまり先生に抜いてもらう等相変わらず不安な日々は続きました。
それでも急性期の病院にずっといるだけではこのまま徐々に弱っていってしまう気がしました。
家族で話し合い回復期にリハビリをしてくれる病院への転院をすることになりました。
転院先の病院では今までの一日20分程度だったリハビリの時間が3倍~4倍で一日3回程度介入をしてもらえます。
回復期の病院なので、食事もその人の症状に合わせ病室で食べるのか食堂のような集団で食べるのかも選ぶことができるようになりました。
義父は食事が進まないため集団での食事にしてもらいました。
転院初日の夕食から8割程食べれたようです。
前院に比べて味も多少濃い食事が出たのもよかったのかもしれないです。
看護師さんもこまめに話しかけてくれ、リハビリの先生の介入も一日に複数回あり気分がだいぶ変わったのもあると思いますが家族にはうれしい変化でした。
病衣をレンタルから持ち込みにし服を着替えるのも退院後の生活へのリハビリとのことでした。
ただ回復期の病院に転院する際に不安もありました。
特に義母は急変した際に元の病院に戻れるのか、医療的な施設が充してないのではないか等不安な点が多くあったようでした。
回復期の病院でリハビリの先生から言われた事は今は心臓の状態をみながら徐々に運動等の負荷量を増やしていったほうがいいという事。
食べられない状態は心臓の状態が悪いからだけでなく、術後のうつ状態かもしれないとのこと。
前院ではとにかく動きなさい、食べなさいと言われ続け家族からみてもなんでこんなに食べれないのだろうと思っていたので、これを聞いて納得でした。
回復期②
それから退院まではなるべく家族で交代で病院にいる時間を長くしました。
ここは結構家族の負担も大きかった気がします。
持ち込みがOKになったので果物のシロップ漬けやスープなどを持ち込んでつきっきりで食べてもらって1割~2割くらいしか食べれない状態が続きました。
主治医から伝えられたのは歩いたり体を動かすこと、とにかく食べれないと・・・とのことでしたがどちらもできるような状態ではなさそうに家族からは見えました。
個室に出た次の日にはリハビリで50ⅿ歩いて下さいとの指示がでましたがサークル歩行器で歩いてすぐに辛そうにしだして、とても50mというレベルではなく、どうしたらいいのか全然見えない状態が続きました。
本人に話かけても瞼が開かない状態が続き、もしかしたらこのまま・・・と最悪の事も考える日々。
お風呂にも入れない日が続いたので義父は頭も洗いたいと言っていました。
シャワーについては手術からかなり経って家族の付き添いで可能になりましたが、これも家族が言わないと叶わなかった気がします。
急性期の場合命が最優先なので言いづらいですが、そのほかの細かい希望については本人や家族からこまめに要望を出すのがいいのかなぁと思っています。
この頃動いていたことは
①退院後のリハビリをしてくれる病院への受け入れ先を探す事。
②地域ケアプラザ(地域によって呼び名が違うかもしれないです)に行き退院後の生活に備えて介護申請の相談にいき、面談を受ける事。ケアマネジャーさんをどこで引き受けてもらうか探す事。
③家の改修が必要な部分を家族で話し合う事。
④生活をどこの部屋でするかを考えて置く事。
病院にも退院後の生活や転院先を調整していくれる地域連携室というお部屋があり、ソーシャルワーカーさんが相談に乗ってくれました。
治療費については義両親に任せていたのですが、そこの部分もサポートが必要な場合もこの時期から動いたほうがいいかなと思います。
また保険がある場合はその手続きについても調べる必要があると思います。
入院中より退院後の生活に不安が芽生え始めた時期でした。
回復期①
それから少しずつつながれている管の本数が減っていった義父。
胸には開胸で出来た大きな傷跡があります。
先生からはろっ骨を折った状態なのでコルセットのようなものを装着していますとのこと。
また手術のせいか色々なところに水だか血がたまってしまうのでそれも機械繋げて対外へ出すようにしていました。
数日して今日はあそこの椅子まで立って歩いたんだ。とリハビリもほんの少しずつ始め、一週間程でCCUから個室に出ることができました。
しかしそれからも大変な日々は続きました。
CCUでは管理の基準上一人または二人の患者につき一人の看護師さんがついてくれていました。
個室ではそうはいきません。
日中お見舞いまでは父は一人で過ごすことになり、せん妄が現れました。
せん妄とは入院生活等の治療で一時的に認知が下がったり、易怒的(怒りやすくなる)等の症状がでることをいいます。
救急車で運ばれるまではすべて自立で生活ができていた義父。
わたしも仕事の関係でせん妄のことは知っていましたが、本当にいきなり色々分からなくなってしまうんだな。と驚きました。
具体的には拉致されていて、家族もみんなグルなんだ。
看護師さんも誰だかわからなくなりわからず連れていかれそうになった。すぐに帰らないといけない。と言いベットから立ち上がろうとする等々
更に義父は救急車で運ばれた後CCUから個室に出た際に必ず看護師さんを呼んでトイレに行って下さいというのを忘れてしまったのかベット柵を乗り越えて転倒していたというエピソードがあり、その後身体抑制というベルトを付けられてしまいました。
今回もCCUから個室に出るタイミングはすごく不安で、その後のせん妄だったので更に状況が悪くなってしったという思いが家族にはありました。
ここは人間の尊厳にもかかわると思いますがトイレに一人で行きたいってみんな思いますよね。
ナースコール遠慮なく押してくださいって言われても押すのをためらう気持ちは本当によくわかります。
義父の歳だと余計なのかもしれませんが、この時期本当に辛かったと思います。
ただ、義父本人は回復し半年以上たった現在はこの当時の事はほとんど覚えていないそうです。
そのためか義父は面会時間以外に困った事があると携帯電話(個室はOKだったそう)で義母に電話をかけてきて、それを義母が病院に電話するという謎の回線ができ上っていました。
更に入院前・手術前も結構量を食べていた義父がぴたりとご飯を食べなくなってしまいました。
急性期の病院では一人一人の患者さんにつきっきりで食事の介助をすることは結構難しいように思います。
そのためほっておくと義父はほとんど食事をしないまま下げられてしまう。
私たち家族は交代でなるべく朝・昼・夜の義父の食事時間に食事の介助をすることに決めました。
手術後
翌日14時からの面会時間を待って義母・義姉・私で面会に行きました。
「人工呼吸器外れているなぁ・・・」
待合室で待つもなかなか呼ばれない。
しばらくして事務の人が〇〇さんもうCCUに移動しました。
とのことでCCUに向かいました。
結果人工呼吸器は抜管できたとのことで一安心。
ただ病棟内は歩けていた義父がベットで色々な管につながれて絶対安静。
おむつをしてなにもできない状態です。
昨日の手術前とは全てが変わってしまいました。
アブレーションの手術リスクの説明の時は数パーセントの重篤なリスクと説明を受けました。
私たちはそれを聞いて安易に大丈夫だろうと思っていました。
けれど81歳義父の年齢を考え、また高血圧などの既往症を考慮するとそんなに安易に決めてしまってよかったのかと、とにかくそこがひっかかりました。
開胸手術
その後先生たちが複数人で開胸手術をしてくれました。
具体的には心臓に2か所、肺に1か所穴が開いてしまったとのことでした。
心臓血管外科の先生がその部分を開胸後縫い合わせて下さいました。
1階に呼ばれてから1時間程度で長男夫婦とも合流し、一緒にソファーで待ちます。
その間は今どんな治療がされているのかもわからずバタバタする医師や看護師さんや臨床工学技士(手術機器の技術者)さんの様子を見ながら心配することしかできませんでした。
そこから1時間くらいでようやく先生から出血はなんとか止まりました。と説明を受けました。
その後義父はICUに移り、その後意識はなかったのですが一度面会をすることができました。
人工呼吸器につながれているので明日抜管できるかトライします。とのこと。
手術に送りだしてくれた看護師さんも手術中何度か話かけてくれたのですが、無事に出血が止まってもここからの回復には時間がかかると思って下さいと言われました。
数時間前まで救急車で運ばれた時より徐々に元気になってきたと思っていた義父、いきなり状況が変わってしまいました。
とにかく明日人工呼吸器が抜管できることを祈ろう。
家族みんなそう思いながら一夜を過ごしました。